私の母は昭和20年代生まれで、女性の大学進学率が20%に届かない当時に4年制大学に進学し、教員になった。女性の四大進学だけでも珍しいことだったというのに、母はそこから3回の妊娠・出産を経ながらも働き続けた。幼心に「うちのお母さん、働いているんだよ!」と誇りに思っていたことを改めて思い出す。
我が家は父方祖父母との3世代同居で、母の立場からすれば発狂してもおかしくない環境だったが、お腹がすけば祖母がおやつを作ってくれ、兄弟で喧嘩をすれば祖父に怒られ、子ども目線では寂しさを感じることは皆無。そのおかげか、母に仕事を辞めて欲しいと思ったことは覚えている限り一度もない。
母が仕事をしていることを誇りに思っていた一方で、思い出されるのはいつもイライラしていた不機嫌な母の姿である。親の不機嫌というのは、マジで恐怖しかない。
今日は機嫌いいだろうか、悪いだろうか、話しかけても大丈夫だろうか(話しかけて無視されることしばしば。震えるほど怖い)。帰宅して夕食の準備をする母の背中を見ながら、様子を伺うことが常だった子どもの頃の私。このことは私自身の心になかなかの影を差す出来事として刻まれている、気がする。
当時、これは母の気質にまつわるものだと思っていた。けれども、私自身が社会人となり出産・子育てを経て思うのは、多少の気質はあれどやっぱり母は疲れ果てていたんだ、ということだ。
私の子ども時代の恐怖を天秤に掛けたとしても、「それでもお母さんには笑っていて欲しかった」とは、とても言えないのである。
ところで、実家の台所(キッチンではなく、あえて、台所)はめちゃくちゃ汚かった。というか台所のみならず、大抵どこも汚かった。3世代家族が暮らしていて掃除は週に1回なのだから当たり前ともいえる。キッチンなんて一日で汚くなりますからね。その蓄積たるや。
母の無精ゆえではなく、マジのマジでそこまで手が回らなかったのだと思う。私がお手伝いをもっとすれば良かったのだろうが、言いつけられた時しかしなかった。ダメな娘である。まあ子どもとはそういうものだ。ただ、これは逆に良かったなと思っていて、なぜなら「家事をできない時は放棄する」、これが選択肢として存在することを母から学ぶことができたからだ。
仕事や育児やらで死にそうになっているとき、家事を放り出すことに何の躊躇も一時の迷いもない。ありがとうあの時の汚い台所。
3世代同居にフルタイムの教員仕事、3人の子供たち。こんな過酷な環境を乗り切った母。つくづく考えるのが、「何が母を動かしていたんだろう」ということだ。母は少し天然で大雑把なところもありながら、控えめな人である。「女性は働くべき!」とか強いポリシーも感じたことはない。それでも大変な思いをしながら、イライラしながら、疲れ果てながら、働き続けた。
今でさえハードルが高い「女性が働き続ける」ということ。それを40数年前から継続してきた母。どんな生き方をしたくて、どんな風になりたくて仕事をし続けてきたのだろうか。やっぱり仕事が好きだった、お金が必要だった、義両親と家にいるのが嫌だった?どんな答えが返ってくるのか。今度帰省したら聞いてみようかなと思う。
私がこれからの生き方を考えたとき、子どもに「お母さんこんな仕事しているんだよ」と誇れるような仕事をしたい、という思いが常に心の真ん中にある。”お母さんこんなことを特別詳しく知っているんだよ、こんなことで人の役に立っているんだよ”と言いたい。
そう思う背景には、やはり働いていた母の背中がある。私の背中は子どもにとってどんな風に見えているのだろうか。ドン詰まりの現在の状況のなか、苦々しい思いで考えるこの頃である。